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鰹節の歴史

鰹節。今高いんですよね。
本当は鰹節から出たお出汁でお味噌汁作るのが好きです。


カツオ自体は古くから日本人の食用となっており、縄文時代にはすでに食べられていた形跡がある(青森県の八戸遺跡など)。5世紀頃には干しカツオが作られていたとみられるが、これらが現在の鰹節とはかなり異なったものであったようだ(記録によるといくつかの製法があったようだが、干物に近いものであったと思われる)。

飛鳥時代(6世紀末-710年)の701年には大宝律令・賦役令により、この干しカツオなど(製法が異なる「堅魚」「煮堅魚」「堅魚煎汁」に分類されている)が献納品として指定される。うち「堅魚」は、伊豆・駿河・志摩・相模・安房・紀伊・阿波・土佐・豊後・日向から献納されることとなった。

現在の鰹節に比較的近いものが出現するのは室町時代(1338年-1573年)である。1489年のものとされる「四条流包丁書」の中に「花鰹」の文字があり、これはカツオ産品を削ったものと考えられることから、単なる干物ではない、かなりの硬さのものとなっていたことが想像できる。

薫製法が確立したのは江戸時代で、紀州(熊野)の甚太郎という人物が薫製で魚肉中の水分を除去したことに始まる。また、かび節は紀州(熊野)の土佐与一(とさのよいち)という人物が製法を広めたことに始まるとされる。以後、薩摩や土佐、阿波、紀伊、志摩、伊勢、伊豆など太平洋沿岸のカツオ主産地で多く生産された。江戸期には国内での海運が盛んになり、九州や四国などの鰹節も江戸に運ばれるようになった。

江戸時代には鰹節の番付表も作成され、それには伊勢の「阿曾節」、志摩の「波切節」等が行司役、遠州(静岡)の「清水節」、薩摩の「屋久島節」などが大関として名を連ねている。主に京料理などで使われていたのは行司役の鰹節で、現在でも志摩の「波切節」等の枯節は京都の寺社の茶懐石料理などに使われている。

明治以降、尖閣諸島の魚釣島や日本が国際連盟の委任統治領としていた南洋諸島(南太平洋の島々)でも製造されるようになった。特に南洋ものは安価であったことから大いに市場を拡大したが、南洋諸島が第二次世界大戦後に日本の統治を離れたことで、この地域での鰹節産業は終焉を迎えた。


引用:『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年10月29日 21:23に投稿されたエントリーのページです。

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